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河東晴明

種たち


種たち

                                                        河東晴明

「そういうわけでまさにその日、私はマルメロの実の中へ引越した。マルメロの実は種がほとんどなく、

いたって静かだったから。」

                                               カリール・ジブラン『柘榴』

 六時半に目覚めた。顔を洗いたい、と強く感じた。僕はその場で立ち上がってから、広間の床に乱

雑に置かれた空き缶や食べかけのスナック菓子の袋、あるいは他の兄弟たちの足などを踏まないよ

うに、扉のある方角へ歩いた。広間には外の空間に通じる扉がいくつかある。洗面台があるのはどれ

だったろうか、と思いながら僕はひとつのドアノブに手をかけて、勢いよく開けた。はっきりいって、どれ

でもよかったのだ。

 広間に戻ると、さっきまで雑魚寝していた兄弟たちはみんな起き上がって、ごみの片付けなどをして

いた。その輪に加わらないで、ただ壁にもたれかかっているやつもいた。

「やあ、おはよう。」ひとりが僕に声をかける。爽やかでとてもきもちのいい笑顔をしている。そいつは

兄弟の中のリーダーで、当然僕は彼を知っていた。「今日は何時に出るんだい?」

「おはよう。……朝食が終わり次第出るよ。ちょっと、講義の予習がしたくてね。」

 彼は、ふうん、と頷きそれから「まじめだな、がんばれよ」と言って近くに落ちていたポテトチップスの

袋を拾った。僕もなにか拾おうと思ったが広間の床はもう大体きれいになっていて、手持ち無沙汰に

なってしまった。だけど彼とその周りの兄弟たちは常になにかと手を動かしているようにみえる。みん

なにはわかってもらえないかもしれないけど僕にはそうみえるのだ。必死で、忙しそうで、それでいて

楽しそうにみえた。兄弟がこんなにもたくさんいると、こういうことがよくある。こういうとき、「何か手伝う

ことはないか」と聞くと、彼らはちょっと困ったように、「なにも気にしなくていいよ」と優しく微笑む。そし

て僕もやるせなく、微笑み返すしかないのだ。

 僕はあきらめて、先に食卓のある方角の扉に向かった。

 絵に描いたように丸いテーブルに兄弟全員が腰を降ろすと、僕らのリーダーはぐるりとそれぞれの

顔を見回した。自分の手に十本の指がひとつの欠けもなくちゃんと付いているのを確認するように見

回した。十人どころの兄弟ではないが。

 柱時計の鐘が八時を告げた。リーダーは誰よりも先に紅茶の入ったカップに口を付け、そしていくつ

か儀式めいた言葉とともに言った。「……円卓にてはひとつの欠けもなし。今日も一日がんばろう。い

ただきます。」

 いただきます。簡単なイギリス風朝食で、トーストとハムとスクランブルエッグとサラダがあった。紅

茶はダージリンだった。卵は僕好みによく固まっていたし、簡単とはいえ朝食をちゃんと取っていると

いう時点で、僕は十分な大学生生活をしているといえるだろう。そしてまた大勢の兄弟と食事を共にす

る大学生も僕くらいしかいないと思う。朝食と夕食は必ずみんな揃って食べる。リーダーの定めた唯

一のルールだ。

 やがて僕の隣に座っている兄弟が話しかけた。「ねえ、大学って楽しい?」

 またか、と思う。僕が大学に入学してから大方の話題はいつもこれだった。勉強って大変? 先生は

厳しい? 宿題はあるの? 歴史学ってなにやるの? 友達は? でも、大勢の兄弟の中で大学に入った

のは僕だけだから、いささかしょうがないところもあるのかもしれない。

「まあまあ楽しいよ。」と僕が答えると、別の兄弟が言った。

「でも、無理すんなよ。俺たち心配だよ。」

 すると二番目の兄弟が言った。「何事もほどほどにやるのがいいんだぜ。俺たちなんかいつも適当

だけど、一応生きてるし。」

 三番目が言う。「兄さんはまじめだから、僕たちとちがって優秀なんだろうなあ。僕らの誇りだよ。」

 四番目が言う。「確かにこいつまじめだけどさあ、でも本当は外で遊びまくってんじゃないの? 所詮

俺らクズの兄弟だし。」

 くすくす。ふふふ。あちらこちらで小規模な笑いの渦が起こる。続いて五番目が言う。「まあ、いいじゃ

ない。結局はみんなこうやって一緒になってご飯が食べれるんだから。」

 さらに六番目が言う。「家族だしねえ。ってか兄さんって、本当に僕の兄だっけ? 弟だったりする?

どっちだっけ。」

 すかさず七番目が言う。「どっちでもいいよ。俺も分かんないし。あ、おうい、砂糖を取ってくれ。」

 それから八番目、九番目と次々に喋りだす。そして最後に、紅茶を飲み干したリーダーが、ふう、と

息を吐いて口を開いた。

「俺たちは俺たちだ。誰が上で誰が下か、なんてないよ。みんなで笑い、みんなで泣いて、みんなで飯

を食うんだ。他の家はそうじゃないかもしれないけど、でも、これが俺たちだ。いいんだよ、これで。」

 その言葉は兄弟たちの心に、深く降り注がれたようだった。彼らは土のようにその言葉を受け止め

た。「いいんだよ、これで。」

 全員が朝食を終え、「ごちそうさまの儀」が済むと、リーダーとその周辺の者はまだ食卓に残って雑

談にふけっていた。彼らには有り余るほどの時間があった。僕はというと、講義に行かなくてはならな

いのですぐにダイニングを出た。食事中に一言も声を上げなかった兄弟たちも一緒だった。部屋をで

る際、遠くで「早めに帰ってくるんだぞう」と声がした。

 広間に戻って部屋の隅で鞄の中身を整理していると、視線を感じた。そして実はそれはダイニング

からこちらへ戻ってくる際にも感じていた。

「あのう」背後で声がした。「ちょっといいですか? 」

 振り向くとそこにはふたりの、少し童顔の少年がいた。顔はお互い似ていて、他の兄弟とも似てい

た。多分、いや十中八九、僕の兄弟だ。それは確信が持てたが、しかし僕は彼らの名前も人となりも

なにも知らなかった。僕はなんでもない風を装って答える。「どうしたんだい?」

「大学は……外は楽しいですか?」

 彼らは申し訳なさそうな表情をしていて、ちょっと怯えているようだった。僕がいつも似たような質問

を投げられていることを知っての態度なのかもしれない。でも、今の彼らの質問には、なにか底知れな

い意図が、背景があるようだった。

「うん、楽しいよ。いろんな人が転がってるからね。」それから僕は、ちょっと余計だったかなと、後で反

省する言葉を彼らに投げた。「君たちも来るかい?」

 ふたりは驚いたようで、一瞬、互いに目配せをした。「いえ、今日は今から、洗濯とかしなきゃいけないので。」

「そうなの。」僕は鞄を持って廊下に出た。ふたりもついてきた。「じゃあ、行ってくるよ。」

「いってらっしゃい、兄さん。」

 彼らの声を背後に、僕は家を出た。

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