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秋嗣 了

降誕会企画小説「ワッキー」


   ワッキー(原案:タイムワールド「(縄文時代に)京都でワッキーが泳いでお腹が空いてふっ飛んだ」)

                                                                        秋嗣 了

 ――その日ワッキーはタイ料理店にいた。

 京都市で収録を済ませた後、相方と別れて狭い路地裏にひっそりとたたずむ、店に足を踏み入れたのはわずか十数分前の

ことである。ほこりっぽいガラス戸には、かすれた文字で「おいしいタイ料理の店」と書かれている。自分でおいしいと言うか、と

ワッキーは黒々とした眉を寄せる。正面窓から店内の様子を覗おうとするも、店前にある街灯のせいで、ただでさえ薄暗い周囲

がさらに闇を深めていたため、それは叶わなかった。

 窓ガラスを見つめていたワッキーだったが、窓ガラスの下側にふと視線を落とした。そこにはパプアニューギニアで見かける

ような赤い仮面が立てかけられていて、穴の空いた目でじっとワッキーを見つめていた。まるでおいでなさいな、と言わんばかり

の視線にワッキーの身体は自然と動いて、ガラス戸を押し開けていた。ぎい……と微かなきしみを立てて、扉は開いた。

「いら、っしゃい」

 のっぺりとした片言の日本語が店内に響いた。ワッキーが視線を巡らすと、薄明かりにつつまれた店の奥にカウンターがあ

り、そこには浅黒い肌をした小柄な男性が座っていた。落ち窪んだ眼窩の下から、大きな黒い眼がワッキーをじっと見つめてい

る。その視線に、ワッキーはもぞもぞと痩身を揺らした。

「お好きな、席に、どうぞ」

 抑揚のない声で男性は言って、テーブル席の方を指さした。長方形の木製テーブルと椅子が所せましと並び、それぞれの席

の上には天井から太い針金で青いランプが吊り下げてあった。

 ワッキーはなるべく入口に近い席を選んで座った。なぜなら、ワッキー以外に誰も客がいなかったからである。ちらりと振り返

ると男性はワッキーに背を向けてコップに水を注いでいる最中だった。視線を男性から戻し、ワッキーは置いてあったメニュー

表を手に取ると、パラパラとめくった。春雨ともち米を使った「サイコーイサーン」、臓物と数種の薬味を入れたスープ「ガオラオ

ルーアッムー」、卵麺に香ばしく揚げた豚を入れた「バミーギヤオムーヘーン」。写真を眺めているワッキーの喉がごくり、と音を

立てる。――はやく、はやく食べたい。ワッキーの脳内はその欲求で満たされていた。

 そして水を運んできた店員に注文をし、現在に至る。ワッキーは頬杖をついて片手でスマホをいじっていたが、ふいに店の前

で見た仮面を思い出し、振り返って窓ガラスに目を向ける。そこには直径50cmほどの赤い仮面が裏向きに立てかけられてい

た。

 振り向いたままじっとガラスを見つめていたワッキーだったが、ふいに視界が歪んだ。――ような気がした。ガラスが水紋のよ

うに揺らめいたように思えた。疲れているのだろうか、とワッキーは目を擦った。手を離すと至って普通のガラスがそこにはあっ

た。ワッキーは肩をすくめ、スマホに目を戻す。時刻は22時37分を示していた。

「お待たせ、しました」

 店員が盆を運んでやってきた。盆の上には白い皿にカラメル色のスープが入っている。「クウェイティヤオナームトック」だ。豚

肉、玉葱、こぶみかんの葉、唐辛子などを牛、豚の血で煮込んだもの。ワッキーはスマホを尻ポケットに入れると、箸を取り、早

速料理を口に運ぶ――ことができなかった。目の前の景色がぐにゃりと歪む。あ、と叫ぶ間もなくワッキーの右手から箸が転が

り落ちる。天井や床、テーブルといったあらゆるものが概形を失い、換気扇のように、一点に向かって吸い込まれていく。

 ワッキーはう、と口元を押さえた。喉の奥にすっぱいものがせり上がって来るのを感じた。最後に見たのは床に散らばった無

数の貝殻だった。

 水飛沫のような音で、ワッキーは目を覚ました。視界に飛び込んできたのは真っ青な空、ワッキーは跳ね上がるように飛び起

きた。服装は収録を終えた時のままだったが、ところどころに砂がついている。砂を払い落とし、ワッキーは勢いよく首を振って

辺りを見回し――うそん、とつぶやいた。

 目の前には海があった。澄んだ淡青が透明な光を帯びて、波間にきらめいている。

ワッキーはしばらく、あんぐりと口を半開きにしていた。その間抜け面といったら相方がその場にいれば「きもッ」と辛らつな言葉

を投げつけていただろう。もはや習慣に近い感覚でジーンズの尻ポケットからスマホを取り出す。画面は圏外になっていたが、

時刻は先ほど店にいた時と変わらなかった。

 ここはどこだ。ワッキーの思考は「うほうほッ!」という声と、砂浜に落ちた複数の影によって遮断された。ギギギ……と油が切

れたブリキのような音を立てて振り返ったワッキーの視線の先には、腰に茶色い布を巻き、手に銛のような木棒を持ったほぼ全

裸の男たちがいた。

「うほ、うほ!」

 唖然とするワッキーをあっという間に男たちは包囲した。銛(かどうかは分からないが)鋭い切っ先を突きつけられ、ホールド

アップするワッキー。

「ここはどこなんだ……」

 空を仰ぐ男をよそに銛を持った戦士たち(ワッキーはそう呼ぶことに決めた)は、彼のわき腹を突っついて立つように促す。

男たちに連れられ、海岸とは反対側の森に足を踏み入れる。葉の生い茂った木々の間から冷涼な青が見え、肌に心地好い風

が吹きこんで来る。東京では考えられない気候である。隆起した木の根に足を取られながら、ワッキーは森の中をひたすら進

んでいく。そして、そろそろ土踏まずが痛くなり始めたかという頃、ワッキー腹がぐう、と鳴った。途端、銛を突き出してくる戦士た

ち。ワッキーは声にならない悲鳴を上げた。

やがて森を抜けて見えてきたのは、地面にあぐらをかいてたき火を囲む数人の男女の姿だった。男は戦士たちと同じように茶

色い腰布を身に付け、何年も散髪をしていないらしいもつれた長髪に髭を生やしていた。一方、女は動物の毛皮をワンピースの

ように仕立てて身に纏っていた。

戦士たちは立ち止まると、ワッキーを無理矢理地面に座らせた。もうどうにでもなれ、と半ば自棄になっていると動物の毛皮らし

き衣服に、白い耳飾りと首飾りを身につけた裸足の女が、テレビのアマゾン秘境特集などでよく見るような、酋長らしき

男に連れられてやって来た。

 女性はワッキーの前でかがみ込むと、躊躇いなく彼の顎を掴んだ。その力の強さと臭いと言ったら本当に女かと思うほどで、

何日(どころではないが)も風呂に入っていない赤ん坊の臭いがした。しかも、よくよく見ると女の身につけている装飾品は何か

の骨に見える。

「うほ、うほほ」

女の口から出る言葉もやはり先ほどの戦士たちと変わりないものだった。くっきりした二重の眼がワッキーを品定めするように

見ている。女にしては高く筋の通った鼻、

弧を描いた凛々しい眉。近距離で嗅ぐ口臭は最悪だったが、日本人離れした顔はまごうことなき美女と言って良いだろう。

 女の手が無遠慮にワッキーの身体をまさぐる。ふと女の手がジーンズのポケットの位置で止まった。ワッキーは怪訝な顔で

女を見返す。女の指がポケットに滑り込み、何かを引っ張り出した。

「あ、」

 それはライターだった。先日コンビニで買った安物だったが、たまたまポケットに突っ込んだままだった。

「うほ、ほ」

 これはなんだ、というように女が顔をずい、と近づけてくる。

「え、あ、ライター」

 もうちょっとまともな受け答えができないのか、とワッキーは言ってから後悔した。

どうも自分は不審者として扱われているようだが、これでは払拭ができない。

 女は眉根を寄せ、一緒にいた男にライターを手渡した。男は不思議そうな顔でライターを触り、スイッチの部分をカチカチと鳴

らす。男の周囲には興味津々といった様子で他の男女も集まり出し、がやがやと騒いでいる。その間、ワッキーはぼーっと空を

眺めていた。彼の頭の中は先刻食べ損ねたクウェイティヤオナームトックのことでいっぱいだった。

「――うほ! うほほほほほほうほほほうほ!」

 突然、鋭い叫び声がワッキーを現実に呼び戻した。ただならぬ空気にワッキーは首を傾げた。一人がワッキーを指さし、何や

ら叫んでいる。男の手元には点火したライターが握られている。誰かがロックを解除したらしかった。ライターを囲んでいた人々

の視線が一斉にワッキーに突き刺さる。

「え、え?」

 ワッキーは訳が分からずぽかん、としていた。すると、人垣の間から一人の老人が進み出てワッキーを指さし、何やらわめき

出した。その顔は険しく、眉間に深いしわが寄っている。その絵図は高校時代、世界史の教科書で見た中世の絵画の構図と

そっくりだった。あの絵画は――確か、魔女狩りの異端審問の光景を描いたものだった。そう考えたところでワッキーの頭に嫌

な予感がよぎる。

「まさか、え? そんな、」

 ワッキーを囲んでいた戦士たちが一斉に銛を構え直す。確かに、こういう暮しを営んでいる者にとってライターは珍物かもしれ

ない。しかし、そんなことで? 考えている暇もなく、あっという間にワッキーの身体は拘束され、縄を当てられる。

「嘘でしょ、ねえ?」

 戦士たちに呼びかけるが、返事はない。振り返ると、皆一様に恐怖の面持ちでワッキーを見つめていた。

――この男は悪魔だ! 今、この場に異端審問高等官がいたら、そう言ってワッキーを糾弾していたにちがいない。

 二度目、ワッキーが連れてこられたのは断崖絶壁、海を見下ろすことのできる草地だった。

「まさか、飛びこめと……?」

 ワッキーの顔から血の気がすうっと引いていく。

優に50メートルを超えるその断崖は、灰色の荒々しい岩肌がさらされ、遥か下には白い牙を剝き出しにした黒い波が打ちつけ

ていた。

 乱暴に縄を引かれ、ワッキーは岸壁の淵に立たされる。すがるように背後を振り返るも戦士たちの顔を見た瞬間、絶望を悟っ

た。話せば分かる――そう言ったのは誰だったか。そして、頭が真っ白になった今この瞬間にも、ワッキーの腹はうなり声を上

げるのだ。戦士の一人がワッキーの真横に立ち、縄に手をかける。そして彼の身体は岸壁を離れ――なかった。

「へ?」

 ワッキーは素っ頓狂な声を上げる。戦士はワッキーの縄を解いただけだった。

 ぽかん、と振り返るワッキーをよそに屈強な戦士たちはにっこりと微笑む。まるで、気にするなよ、と言わんばかりの笑顔だっ

た。ワッキーはほっと身体の力が抜けていくのを感じた。やはり、ジョークだったのだ。いくら自分が不審者とはいえ同じ人間、

そんな非情なことをしでかすはずがない。何と自分は愚かだったのだろう。

 岸壁に向き直り、たたずむワッキーの頬を一陣の風が吹き抜けた。――この地の美しい空はさわやかな風を運んでくれる。ほ

ら、雲だってあんなに白いじゃないか。

 ワッキーが清々しい顔で目を閉じた時、どん、と背中に衝撃を感じた。

「え?」

 足下に浮遊感を覚える。目を開けた時、そこに地面はなかった。身体が恐ろしい速度で宙を滑走していく。眼前に迫りくる海面

にワッキーは絶叫した。

 気がつけば無我夢中で手足を動かしていた。ばしゃばしゃと凍りつくような水がワッキーの体温を奪い去ろうとする。濡れた

ジーンズがずっしりと重く、何度も身体が沈みそうになる。――死にたくない。ワッキーの頭を覆っていたのはその言葉だけだっ

た。しかし、こんな時だからこそ冷静になれるのがボケの宿命か。一旦、手足を動かすのをあきらめ、水中に沈みながら、ワッ

キーはジーンズを脱ぎ捨てた。

 途端、足が麻痺したように感覚を失っていく。しかし、足は自由になったので水を掻いて水面へ上昇する。顔を突き出すと肩で

息をしながら辺りを見回した。すると遥か遠目に黒い岩場を捉える。

ワッキーはひとまず岩場に向かって泳いでいくことにした。太陽がじりじりと肩に照りつける。落ち着いたからなのか、思った以

上に体力の消耗は感じられなかった。

 小説などでよくアリドナリンだけで動いている状態という描写が見られるが、今がまさにその状態なのかもしれない。

 ――ぐう。

 何度目になるか分からない腹の虫が鳴り響いた。今が何時かは分からないが、少なくともあのタイ料理店で、クウェイティヤ

オナームトックを食べ損ねた時から、何も腹に入れていない。彼の中でプツン、と何かが切れた。

「もう――」

 ぼそり、とつぶやいた声はかすれていた。

「――むりだあああああああああああああああ!」

 絶叫が木霊した瞬間、ワッキーの身体は重力を離れ、すぽーん! と宙を飛んでいった。雲、鳥――あらゆるものが、ぼやけ

た輪郭で視界を駆け抜けていく。直立不動のまま宙を滑走するワッキーの身体は空の彼方へ消えた。

 気がつくとワッキーは交差点に立っていた。辺りは人波でごった返し、自動車のヘッドライトが夜の闇を明るく照らしている。そ

れはいつもの東京の街並みだった。立ち尽くすワッキーなどに脇目も振らず、通勤帰りのサラリーマンや女子高生、青年が足

早に通り過ぎていく。立ち並ぶビルとネオンの合間から黒くくすんだ狭い空が覗いている。

 ワッキーの頭に京都での収録の帰りにタイ料理の店、見知らぬ地に行ったことが走馬灯のように駆け廻った。しかし、ジーン

ズは履いていたし、ポケットの中にはちゃんとライターが入っていた。尻ポケットからスマホを取り出すと、時刻は22時26分を示

していた。ワッキーは肩をすくめ、ポケットにスマホを戻すと、歩き出した。その時、ポケットから白い骨片が落ちたことに彼は気

がつかなかった。

#第95回創立記念降誕会

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