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村川 久敏

降誕会企画小説「頂のその上」


   頂のその上(原案:最高権力者F.K.「富士の樹海で格闘家が怪しげに舞いbe God」)

                                                                       村川 久敏 

 鬱蒼と茂る、名前も知らない植物。春先でも湿度が高いのは繁茂した植物によって地面に日が当たらず雨で濡れた土が中々

乾かないからか。唐突に飛び立つ鳥の鳴き声が響く。自殺の名所として有名な富士の樹海に足を踏み入れて既に三日が経と

うとしていた。だが、男はなにも自殺をしに来た訳ではない。土と泥、また植物の汁で汚れきっているが、男が着ている物は空手

着であり、巻かれている帯は年季の入った黒帯だ。何を思ってここに来たのか、今はもうそんな事はどうでもよくなっていた。手

近にあった、レンガ程の石を拾い上げる。数秒ほどためつすがめつして、男はおもむろに石を軽く上へと放った。最高到達点で

瞬間的に静止し、重力に従って落ちてくる石に対して、男は誰の目から見ても緩慢と分かる動きで拳を合わせにいく。ゆったりと

伸ばされる拳と落ちてきた石とが触れるその瞬間、男の全身、主に上体が僅かに霞んだ。次いで破砕音。足元に降る意志の破

片を見下ろす男の顔は、前代未聞の絶技を成功させたにしては沈んでいた。

 男は、最強の名をほしいままにする格闘家であった。空手に始まり、柔術、ボクシング、柔道、レスリング、テコンドーと、メ

ジャーなものからマイナーなものまであらゆる格闘技と仕合い、そして勝ってきた。日本から飛びだし世界とも戦ったが、男は

強くなり過ぎていた。人類に男より強いものはおらず、いつしか男は型稽古ばかりをするようになっていた。いくら心技体を磨い

たところで、それを解き放って良い場所がもうどこにもない。弟子の育成はそれなりに楽しくもあったが、やはりまだ男は自らが

現役であるという考えを捨てることが出来なかった。一番弟子が日本を獲ったのを機に弟子に道場を託し、男は旅へ出た。どの

ような経過があったかは覚えていないが、男は富士の樹海へ赴いた。自殺の名所ならば、この世ならざる者ならばあるいは、

などといった今考えれば不謹慎極まりないことを考えなかったと言えば嘘になる。だがそのようなものは気配すらなく、また男に

挑むような猛者ももちろんいなかった。

「千代谷流空手道、終いの型」

 故に、男はここでも型の稽古を行っていた。二十代の最後に授けられた千代谷流免許皆伝の証である奥伝の型。ここでやる

くらいならば道場で自らを磨きつつ弟子を見ている方がよほど有意義であることはとうに理解しているのだが、まだ自分は空手

を極めていないと感じており、また同時に自分のような強すぎる人間はいない方が良いのではないかとも考えるようになってい

た。

 雑念は型に現れる。空手は唐手が変化した呼び名であるとか、何も持たずに行う武道であるとかそんなことを言う者がいる

が、男は空手の空とはまさに仏教的な空ではないかとの考えがあった。一度興味を持って調べてみたが、難解すぎるその教え

を理解するには男は仏教の知識が足りなかった。しかしなぜか、やはりそうであるとの確信が深まった。空であるところの空手

の型を雑念を持ったまま行えばどうなるのか。精彩を欠いた奥伝はほんの僅かずつ動きに噛み合いがなくなり、男の身体に容

赦なく負担を叩きつける。型を中断し何をしているのだと己を叱咤した男は、今度は基礎の基礎である普及型一の構えを取っ

た。

「ここでのたれ死ぬのが、案外俺にはお似合いかもしれんな」

 一番弟子には奥伝は授けてある。途中で投げ出さなければ、世界に通用する格闘家にもなれるだろう。一番弟子以外にも光

る才能をもつ教え子は何人もいた。そのことを誇らしく思うと同時に、彼らの面倒を最後まで見てやれそうにないことを申し訳な

く思う。

 息を吸い、吐き、型の名称を呟く。

 左へ中段受け。そのまま逆突き、踏み込んで逆突き、逆突き。振り返り右下段払い。追い突き。中段払い。左足を下げ左中段

受け。追い突き、追い突き、追い突き。振り返り左下段払い。右上段受け。気合と共に左上段突き。

 不意に、体が軽くなる。全てを注ぎ込んだ無心の型稽古が、男を空の境地へと一時的に押し上げたのだ。いや、それが本当

に空の境地であったのか定かではない。ともかく、男はこれまでの格闘家人生で数えるほどしかない精神状態へ到達してい

た。試合中であれば相手が何をするか完全に読むことができ、稽古中であれば己に足りないものが明確に分かる。これはいわ

ゆるゾーンとは違うものではないかと男は考えている。ならばなんだというのか。思考が加速する中、男の身体は型を進めてい

た。もはやそれが自分の身体であるという感覚すら怪しくなり、自身が型そのもの、奥伝そのものであるような感覚がある。型が

終盤に差し掛かると、それすら消えた。

「せあ!」

 普及型一の最後、右中段突きが裂帛と共に打ちだされる。込めた気合や力から考えると、恐ろしく静かな一撃の残身を解いた

男の立つ場所は、ミリ単位のズレすらなく型の開始地点とぴたりと同じだ。

「ここが、そうか」

 型終わりの礼を済ませて、男は呟いた。礼の時に目に入った胴着は新品のように綺麗で、むき出しの足や手に付いていた細

かい傷も全てなくなっていた。

 男は、自分が人の次元を超えたことを理解した。

 なぜそうなったのかは分からない。向上心が奇跡を起こしたのか、人知を超えた神が男を選んだのか、あるいはここまで到達

すれば誰でもこうなるのか。一つ確かなのは、人間としての男が死んだことだ。カウンターの後ろ回し蹴りで重心が傾いてし

まっている弟子にそれを伝えることが不可能になってしまった。まあ、いい。あいつなら自力で気付くだろう。

 さて、ここには、男より強いものはいるのだろうか。

#第95回創立記念降誕会

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