炎の先(原案:縄文時代にイオンタウンが北海道で大爆発した「三内丸山遺跡で格闘家が火を放って自爆した」)
三ツ寺 甘
山の、むせかえるような緑の臭いを嗅ぎながら、男が一人、黙々と斜面を下っていた。日は既に傾きはじめ、朱を含んだ光の
帯が、林の草木と男の横顔とを照らしている。光を照り返す男の顔は、お世辞にも美男とは言えず、むしろ醜男と言って差し支
えなかったが、武骨さと、どことない愛嬌、そして鍛え上げられていると一目でわかる肉体が、その印象をあっさり打ち消してい
た。
背負った袋、引きずる肉と毛の塊から、男が狩りに出ていたことがわかる。だが不思議なのは、男が石弓も石槍も持っていな
いことだった。身につけた布服は土や血で汚れ、所々擦りきれている。散策は決して穏やかなものではなかったが、男の歩み
は淀みなかった。
山を下り、さらにしばらく歩くと、男の住む集落が姿を現した。まず目につくのは、大きな物見やぐら、次いでいくつかの家々。
狩りに出ていた男達、木の実拾いに出かけていた女子供の列も近くに見える。
近づき、口々に挨拶を受ける中、一際幼い少女の声が、男の耳に飛びこんできた。はしゃぐ声に、今まで引き結ばれていた男
の唇が、ほんの少しほころんだ。嬉しげに笑う少女を、男の太い両腕が軽々と抱き上げる。齢は七。少し生意気だが、まだまだ
可愛い盛りの一人娘だった。木の実拾いはどうだった、と聞くと、たくさんとれました、と、背負った袋を自慢げに見せつけてく
る。言うだけあって、そこそこの量が中に入っているようだった。自分が初めて木の実拾いに行ったときはどうだったろう?
ひょっとすると、これより少なかったかもしれない。頑張ったが、まだまだ。そう言うと、娘は頬を膨らませながら、けれどどこか
嬉しそうに男を見上げた。つぎは、もっととります。そうか。短いやりとりを終え、今日の収穫を仲間に披露し、配分を受け取って
家路についた。
この集落にとって夜とは、それぞれが住処に引っ込み、今日の収穫に舌鼓をうちながら、一日の出来事を報告しあう時間だっ
た。今日は二人、帰らなかったみたい。妻が物憂げな表情に、捕ってきた猪肉を頬張りながら、男は眉を顰めた。外には常に危
険が伴い、獣に襲われて命を落とす者も多い。だが近頃は何かがおかしかった。
気をつけてね。妻の言葉に、心配するな、男はそう言って、隣で肉と格闘する娘の頭をなでた。妻は笑って、子ども扱いされて
頬を膨らます娘をなだめはじめた。
眠る娘と妻を眺めながら、男は今日の狩りの記憶を反芻していた。目を閉じ、あの得も言われない感覚を、必死に思い出そう
とする。普段なら大した獲物ではなかった。武器があればさして苦労することもなかっただろう。だが男は無手だった。何故そん
なことをと訊かれれば、答えに窮する。そうするのが一番自然な気がするから、と、答えにもなっていない呻きを返す他ないの
だ。
小さな頃から、男は他より身体が大きかった。自然、力が余ってしまい、初めての木の実採りの時も、獣を追いかけ母親にしこ
たま怒られた苦い記憶が残っている。素手の喧嘩で彼の右に出る者はいなかったし、それは武器を持っても同じことで、狩りの
腕前において男は強い尊敬を受けていた。
成人して所帯を持ってからもその気質は変わらなかったが、近頃、男は自分の中の欲求をより強く感じるようになっていた。こ
の身一つで狩りをしてみたい、自分一人の肉体で、獣相手にどこまでやれるのか試してみたい。今日、槍も弓も身につけず、
たった一人で出かけたのはそういうわけだった。それがどれだけ危険なことか、理解していないわけではないが、自分の欲求を
抑えられそうになかった。いなくなった者の話を聞いた時、かすかな欲が身をもたげるのを、男は意識の端で確かに感じたのだ
から。
それから十日程経ったが、死者は絶えることなく、男達は「何かがやって来たのだ」という結論に達せざるを得なかった。だ
が、じきに冬がやって来るため、その何かを恐れて家に引っこんでいることはできなかった。遠出を避け、女子供に男達が付く
ようになったものの、集落が営みを止めることはなかった。
その日、男は村の若者に付いて狩りに出ていた。小さな獲物が数匹。冬に備えるならもう少し量が欲しいところだったが、見つ
からない。生き物の気配がしない、若者の一人が不審げに言った。男は頷いた。逃げたか食われたか、どちらにせよ厳しい冬
になりそうだった。やっぱり、何かいるんじゃ……別の青年がそう言いかけた時、茂みをかき分ける音が男達の耳に届いた。男
が身構える。
やがて、それは姿を現した。人の胴を食いちぎってしまえそうなほど巨大な山犬が、汚れた灰色の体を躍らせ、涎を垂らしな
がら唸っていた。大きな顎から、小さな子供の足が見えている。木の実採りに出ていた一団と出くわしたようで、反撃を受けたの
だろう、腹には矢が刺さり、そこから赤い血がてらてらと流れ出していた。山犬の瞳に溜まった不気味な光を見た瞬間、男の体
を震えが走り抜けた。それは恐怖というより、喜びだった。何か考える前に、男は手に持った槍を投げつけた。山犬はひらりと身
をかわし、そのまま茂みへと消えてしまった。
その拍子に、山犬の顎から子供の身体が落ちた。粘質な水音にそちらを見、男達は息を呑んだ。男の体をまた震えが襲っ
た。先ほどの震えとは全く別物だった。体からどっと汗が噴き出て、指先がひどく冷たく感じられる。頭が酷く痛み、視界はぐ
ちゃぐちゃに明滅していた。だが、そんな状態でも、娘を見まちがえるはずはなかった。
娘の死を知らされた時、妻の嘆きは並大抵のものではなかった。まず食欲が落ちはじめ、それから見る間に衰え、美しさに陰
りがかかりはじめる。追い打ちをかけるように、やがて厳しい冬がやって来た。草木や虫は鳴りを潜め、動物達もめったなことで
は姿を現さなくなる、最も嫌われる季節だ。中でも今年は最悪で、多くの餓死者が出ることは想像に難くなく、皆の表情は暗
かった。そしてさらに悪いことに、例の大犬が少なくなった獲物のせいで人間に狙いをつけたことだった。……今日も一人、帰っ
てこなかったみたい。寝床に横たわった男の耳元に、妻が憂鬱な声で囁いた。男もそれは聞いていた。好むと好まざるとにか
かわらず、いやな知らせはいの一番に耳に入り、体を震わせるものだ。ちょうどこの冬の冷たさと同じように。飢えて死ぬか、食
われて死ぬか、選ばなければいけなかった。どちらも嫌なら、戦うしかない。
数日後のその日、空には灰色の雲がたちこめ、空気はひときわに刺すような冷たさを含んでいた。数日ぶりに開かれた門扉
から村人の列がそそくさと出、槍を持った男達がその周囲を囲っている。中には妻もいた。皆、大犬の鼻をごまかすために草の
汁や泥を体中に塗りたくっている。行列を見送ると、男は数人の若者と村の中に戻った。男が目配せすると、若者は深く息を吸
い、自分の腕に石刃を突き立てた。傷口から血が溢れ、鼻をつく臭気があたりにたちこめた。
どれだけの時間が経ったのか、やがて身の毛がよだつ遠吠えが上がり、徐々に近づいてきた。音は少しづつ、少しづつ大きく
なり、ひときわ大きくなった後、ふいにやんだ。来た。男は身構えた。遠吠えがやんだ直後、門を走り抜ける巨大な犬の姿が男
の目に飛びこんできた。一噛みで頭をかみ砕いてしまいそうな顎がいっぱいに開かれ、とんでもない速さで近づいてくる。すん
でのところで身をかわし、以前から矢が刺さったままの横腹を、思い切り殴りつけた。怯んだ隙に、固まる若者に怒鳴り、走る。
その先には、集会などで使われる、村でも一番大きな建物があった。そこに入り、向き直る。入口を無理やり押し広げるようにし
て、大犬も中に入った。そのまま襲いかかる。首根っこを捕まえようと、男も必死になって食らいつく。それが延々と続きそうな気
がした。いつのまにか入口は塞がれて、炎が舐めるように壁や天井を這っていた。あいつら、うまくやったのか、と、他人事のよ
うに思う。血走った眼で牙を剥く大犬ともみあいながら、男はどこかぼんやりした気分だった。懸命に動く身体とは薄皮一枚隔
たったところに精神があるようだった。娘のこと、妻のこと、仲間のこと、それらが一瞬の火花となって脳裏を駆けていく。同時
に、何か得体の知れない満足感が心と身体を貫いていた。こんな気分になったのは生まれて初めてだった。楽しいなあ、おい。
腕を食いちぎられながら、男はいやにのどかな気分で大犬にそう声をかけようとした。しかし身体はそうせずに、代わりに犬の目
玉に指を突っこんでいた。楽しいなあ。苦悶の声を上げる大犬に、今度は本当に声をかけていた。
延々と続くかと思われたこの遊びにも終わりはやってきた。天井が崩れ、絡み合う男と大犬の上に落ちた。一瞬、炎はひとき
わ大きく、激しく、燃え上がり、夜の闇を赤々と散らした。
#第95回創立記念降誕会